第4回目の映画紹介です。韓国映画が続いたので日本映画を挟みます。歌舞伎役者中村勘九郎さん主演の「禅 ZEN」をご紹介したいと思います。2009年公開の角川映画です。

 道元役の中村勘九郎さんがとにかく清々しい。なんだろう、この透明感。もう僧侶を通り越して、人の向こう側へ行ってしまっている感じがします。この映画を見て率直に「座禅ってかっこいいな」と思いました。単純だけど、きっかけってそういうものですよね(*’ω’*)

 座禅をする姿は周囲から切り離されて、結界が張られているようにさえ感じます。肉体はそこにあっても、意識は別な所にあるのです。簡単にお邪魔できない聖域に入っているような集中した姿は、凛としてかっこよく見えるのですよ。

<あらすじ> 道元は幼くして母を亡くし、真の仏法を学ぶため宋(中国)へ留学僧として旅立ちます。しかし高僧達を訪ねても正師と呼べるような立派な仏法の伝授者には出会えません。悲観に暮れていると、大きな荷物を背負った飯炊き係の老僧(笹野高史)に出会い、天童山へと導かれます。そこで曹洞宗の如浄(にょじょう)禅師から「只管打坐(しかんたざ)」を学びます。

 帰国した道元が見たものは、荒れた街に困窮した人々や傍若無人にふるまう僧兵の姿でした。正伝仏法を会得したと言われる道元を脅威に感じた他宗の僧兵たちは寺を襲撃。追われた道元たちは、最終的に山の中の永平寺へと拠点を移します(現在の福井県にある大本山ですね)。

 貧しさから娼婦になったおりん(内田有紀)が病気の赤子を抱いて、道元に助けを求めるシーンが印象的です。懇願するおりんに対して道元は助かる方法は一つだけあると言います。それは、” 里の一軒一軒を訪ね歩き、身内が死んだ事のない家から豆を一粒もらうことー ” はたして見つかるのでしょうか?後におりんは尼僧になります(ネタバレ感)。

 そして悟りと修行の連環を続ける道元に、鎌倉幕府執権である北条時頼(藤原竜也)との面会の話が持ち上がります。若くして権力の座についた時頼は夜な夜な亡霊に悩まされては半狂乱で刀を振り回していました。苦しみから救われたい一心で問答しますが、道元の言葉は当たり前の事を言ったり、難解な言葉を言い放つだけで理解できません。時頼は怒り、道元に刀を向けます―

 この物語は3つの構成から成り立っています。序盤=留学編、中盤=おりん編、終盤=北条時頼編です。中村勘九郎さんの声が、道元の年齢と共にだんだん変わっていきます。最後のあたりは重厚さを出そうとしたのか、歌舞伎っぽい発声を感じました。

 作品中に心に響く言葉がいくつも出てきます。特に気に入ったセリフは「他者への依存は己の中の仏を殺すことである」と「悟りを目的に座禅するのではない、只管打坐そのものが悟りなのだ」の2つです。ふ~なんだか座禅したくなってきました。